「国盗り物語(一)」司馬遼太郎(1965-1966年、日本)

(しかしおれには、天禀の武略がある)
 そう信じている。
 その才能を試したかった。というより、自分の一生の運を占うつもりであった。

 戦国の世、牢人から国主へと成り上がっていく松波庄九郎(斎藤道三)と、その娘婿である織田信長の生き様を描いた歴史小説

 言わずとしれた歴史小説の大家司馬遼太郎ですが、読むのはこれが始めて。

 第一巻は松波庄九郎(斎藤道三)編の前半ということで、金も権力もない牢人時代から始まって京の油商人となって一財産を築き上げ、美濃攻略への足がかりを獲得し……、と庄九郎が徐々に成り上がっていく過程が描かれています。 庄九郎の傲慢ともいえる自信と野心、そして一国の国主になる機会を虎視眈々と伺う様はまさに「蝮の道三」。 それでいて、人心掌握術に優れ、他者を屈服させる気迫を兼ね備えた庄九郎は、周囲の人を惹きつける不思議な魅力があり、梟雄斎藤道三とはまた違った面を見せてくれます。

 ……ただ、悲しいことに、この作品自体がどうしても自分に合わなかった。
 一番に文体で、地の文でしばしば作者自身が登場して歴史に関する論考を述べていくスタイルが苦手で……。 単純に作者登場の度に現実に引き戻されて小説の世界に浸れないというのもあるのですが、それ以上に小説の登場人物として、あるいは歴史上の人物としての松波庄九郎ではなく、作者が想像する松永庄九郎像を延々と語り聞かせられているように感じてしまって、あまり小説を読んでいる感じがしませんでした。 見方を変えると、フィクションの中に史実や史料に基づいた論考を混ぜ込むことで、主観を客観に転化してリアリティを増大させ、作品をより魅力的なものとしているのだろうと思います、良くも悪くも。 実話系怪談をはじめとしたフェイクドキュメンタリーによく見られる手法のように思いますが、歴史小説だと語り手=体験者とならないのでそこが違和感の元なのかな、と思いつつ(フェイクドキュメンタリーという言葉自体は司馬遼太郎よりもあとに出てきたもののように思いますが)。
 物語としても、(少なくとも第一巻の時点では)庄九郎の思惑通りにトントン拍子に進んでいくため、庄九郎の凄さというのがいまいち感じられず。
 全四巻の作品ですが、続きを読むかはかなり微妙なところ……。 作品というより、完全に私の感性の問題ではあるのですが、司馬遼太郎の作品は気になるものが多かっただけに残念。