「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」フィリップ・K・ディック(1968年、アメリカ)

「あなたってとっても優しい」エレベーターに乗りこみながら、ルーバがいった。 「人間たちには、とても奇妙でいじらしいなにかがあるのね。 アンドロイドなら、ぜったいにあんなことはしないわ」 彼女はフィル・レッシュに氷のような視線を向けた。 「彼だったら、夢にも思いつかないことだわ。百万年かかってもね」

 1968 年初出の SF 小説。 原題は「Do Androids Dream of Electric Sheep?」。

 世界最終大戦によって、放射性降下物が絶えず降り注ぐ惑星になった地球。 多くの人間が火星への移住を行う中、移住を行わない選択をした(あるいは移住することができない)者たちもいました。
 本作のあらすじは、そのような地球を舞台として、賞金稼ぎであるリックが火星から地球へ脱走してきた 8 体のアンドロイドを処理すべく、彼らを追う、というものです。 はじめはアンドロイドを処理することに疑問を抱いていなかったリックですが、様々な人間やアンドロイドと出会うことにより、人間とアンドロイドの違いは何か、アンドロイドを処理することが正しいのか、自分に問いかけるようになります。

 人間とアンドロイドを対比させることで、人間とは何かを問いかける SF の名作。 久々の再読ですが、改めて読んでみると、色々と考えさせられる部分が多いです。
 本作で登場するアンドロイドたちは、外見や思考、行動など、人間そっくりに造られており、彼らと人間を簡単に見分けることができません。 そのような中、人間とアンドロイドを区別するものはなにか。 それが人間の持つ「感情移入能力」であると、作中では度々言及され、「感情移入能力」の有無による両者の断絶が描かれます。
 その一方で、リックは、脱走アンドロイドでありながら芸術を解し、優れた歌唱力を持つルーバに感情移入し、アンドロイド狩りを楽しむ同胞フィル・レッシュに嫌悪感を覚える中で、アンドロイドを処理することにためらいを感じ、思い悩みます。 やがて、リックは人間とアンドロイドの違いを理解しながらも、アンドロイド(そして電気動物)の生命を尊重するようになります。 人間とアンドロイドは確かに違う、けれど違うことは相手を尊重しない理由にはならない、というのがまさに人間の「感情移入能力」を体現しているようで、とても好きです。

 奥深いテーマを持つ本作ではありますが、賞金稼ぎのリックと、彼の追うアンドロイドたちとのバトルものとして見ても面白く、エンターテイメント作品としても良質。
 同時に、本作品が出版されたのは 1968 年で、冷戦の只中。 世界最終戦争、核による地球の汚染、宇宙への移住――と、フィクション作品ではあるのですが、世相を強く反映しているのが感じられます。

 ※ 以下、物語終盤のネタバレを含むので注意

 
 

 物語の最終盤、なぜレイチェルが黒山羊を殺したのか、という部分がずっと不思議だったので、思ったことをつらつらと。

 まず、嫉妬ではなさそう。 レイチェルがリックと関係を持ったのは、愛情や共感というよりは、情欲とリックにアンドロイドを殺させないという目的のため。 レイチェルがリックに寄り添っているような描写はなかったかなと思います。 (一方で、リックがレイチェルという「個」を愛していたかというとそうではなく、アンドロイドに対して感じ始めていた共感を象徴している、と解釈しています)

 じゃあ何が理由だったのかを考えたとき、リックに対して勝てなかったことへの意趣返しかなと。 もともとレイチェルがリックに近づいた理由は、アンドロイドに対する情を芽生えさせ、アンドロイド殺しをできなくさせるためでした。

「これがなにを意味するかは、むろんわかるわよね? つまり、わたしが正しかったのよ。 あなたにはもうアンドロイドが殺せない。(略)」

レイチェルはこれまで、他の賞金稼ぎたちにも同じ目的で近づき、そのほとんど(フィル・レッシュという例外を除いて)成功させてきましたし、リックに対しても成功したかのように見えました。 けれど、リックはアンドロイドたちを殺した。 アンドロイド殺しが間違ったこと(アンドロイドたちの命も人間の命と同様に尊重されるべきもの)と分かっていながら。

「マーサーは、それはまちがったことだが、とにかくやるしかない、とおれにいった。 まったく、妙な話さ。 ときには、正しいことよりまちがったことをするほうがいい場合もある」

レイチェルからすれば、リックにしてやられた訳です。 犯人が自分だどリックに分かるように殺したところや、黒山羊殺し自体がローゼン協会の利害が絡まないところを鑑みると、黒山羊殺しは完全にレイチェルの独断なのかなとも思います。

 もう一つ、殺したのが黒山羊だったのはなぜかについては、リックにとって一番大事なものが黒山羊だと、レイチェル自身が思っているからかなと。

「その山羊だけど」とレイチェル。 「あなたはわたしよりもその山羊を愛してるのね。 たぶん、奥さん以上に。 一が山羊、二が奥さんで、その次が――」げらげら笑いだした。 「これが笑わずにいられる?」

しかし、リックはルーバたち脱走アンドロイド殺しを経て、アンドロイド(電気動物)に対する愛情を感じ始めていました。 バスター・フレンドリーがマーサー教のインチキを暴露してもイジドアからマーサーに対する信仰を奪えなかったように、レイチェルもまた黒山羊を殺してもリックの一番大事なものを奪えなかったということなのかなと思います。

「マーサーがあのピンボケのイジドアにやったクモ――あれもきっと模造だったんだ。 だが、そんなことはどうでもいい。 電気動物にも生命はある。 たとえ、わずかな生命でも」