「十角館の殺人」綾辻行人(1987年、日本)

「望むところさ。僕が探偵役を引き受けてやるよ。どうだい?誰かこの私、エラリィ・クイーンに挑戦する者はいないかな」

 綾辻行人館シリーズの第一作目。再読。

 青屋敷――角島に建てられた奇妙な屋敷は一年前に焼け落ち、屋敷の主人である中村青司とその一家が謎の死を遂げた。 大学のミステリ研のメンバーたちは、事件以降無人となった角島へと訪れる。 しかし、外部から閉ざされた孤島で、一人、また一人とメンバーが殺されていき……。

 本作は、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」のオマージュとなっており、孤島を訪れた7人のミステリ研メンバーたちが殺人事件へと巻き込まれていきます。 クローズド・サークルミステリの名作として名高い本作ですが、心理の穴を突いた巧妙なトリックが本当にすばらしい。 記憶を消して読み直したとしても、真相に辿り着ける気がしません。

 登場人物たちもそれぞれ個性的で、事件以外の部分、登場人物たちのやり取りや人間関係なども読み応えがあります。 事件に巻き込まれたメンバーたちは互いに顔見知りなので、和やかな合宿から一転して凄惨な事件に巻き込まれたときの絶望感、恐怖が一層際立っています。 また、本作は、ミステリ研のメンバーが集う角島と、一年前の中村青司の事件を追う本島の物語とが並行してして進行し、異なる軸で展開していく物語がどう絡まり合い、収束していくかも見どころになっています。

 ミステリ研のメンバーたちが、それぞれエラリィ、アガサ、カーといたようにミステリ作家に由来するあだ名で呼ばれているなど、古典ミステリのネタも散りばめられていて、ニヤリとさせられます。 それと同時に、そういった遊び心とも言える部分が作品の伏線やミスリードとしてしっかりと機能しているのが面白い。 特に、そして誰もいなくなった」のオマージュにである(ネタバレ反転)という点が最大のミスリードになっていて、オマージュ元と同様に、孤島を舞台にした一種の密室殺人である(ネタバレ反転)という先入観を植え付けているのもうまい。

 物語の終盤にかけては、探偵役然としていたエラリィが真相に辿り着けないまま死んでしまった(ネタバレ反転)のがなかなか衝撃でした。 そして誰もいなくなった」の犯人は自身の罪に対して自ら手を下しましたが、自身の殺人を正当化していた本作の犯人もまた最終的には自らの罪を裁かれることになった(ネタバレ反転、「そして誰もいなくなった」のネタバレ含)のは皮肉ですね。

 久々の再読でしたが大満足。 館シリーズの二作目以降は未読なので、そちらも読んでみたいです。

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」フィリップ・K・ディック(1968年、アメリカ)

「あなたってとっても優しい」エレベーターに乗りこみながら、ルーバがいった。 「人間たちには、とても奇妙でいじらしいなにかがあるのね。 アンドロイドなら、ぜったいにあんなことはしないわ」 彼女はフィル・レッシュに氷のような視線を向けた。 「彼だったら、夢にも思いつかないことだわ。百万年かかってもね」

 1968 年初出の SF 小説。 原題は「Do Androids Dream of Electric Sheep?」。

 世界最終大戦によって、放射性降下物が絶えず降り注ぐ惑星になった地球。 多くの人間が火星への移住を行う中、移住を行わない選択をした(あるいは移住することができない)者たちもいました。
 本作のあらすじは、そのような地球を舞台として、賞金稼ぎであるリックが火星から地球へ脱走してきた 8 体のアンドロイドを処理すべく、彼らを追う、というものです。 はじめはアンドロイドを処理することに疑問を抱いていなかったリックですが、様々な人間やアンドロイドと出会うことにより、人間とアンドロイドの違いは何か、アンドロイドを処理することが正しいのか、自分に問いかけるようになります。

 人間とアンドロイドを対比させることで、人間とは何かを問いかける SF の名作。 久々の再読ですが、改めて読んでみると、色々と考えさせられる部分が多いです。
 本作で登場するアンドロイドたちは、外見や思考、行動など、人間そっくりに造られており、彼らと人間を簡単に見分けることができません。 そのような中、人間とアンドロイドを区別するものはなにか。 それが人間の持つ「感情移入能力」であると、作中では度々言及され、「感情移入能力」の有無による両者の断絶が描かれます。
 その一方で、リックは、脱走アンドロイドでありながら芸術を解し、優れた歌唱力を持つルーバに感情移入し、アンドロイド狩りを楽しむ同胞フィル・レッシュに嫌悪感を覚える中で、アンドロイドを処理することにためらいを感じ、思い悩みます。 やがて、リックは人間とアンドロイドの違いを理解しながらも、アンドロイド(そして電気動物)の生命を尊重するようになります。 人間とアンドロイドは確かに違う、けれど違うことは相手を尊重しない理由にはならない、というのがまさに人間の「感情移入能力」を体現しているようで、とても好きです。

 奥深いテーマを持つ本作ではありますが、賞金稼ぎのリックと、彼の追うアンドロイドたちとのバトルものとして見ても面白く、エンターテイメント作品としても良質。
 同時に、本作品が出版されたのは 1968 年で、冷戦の只中。 世界最終戦争、核による地球の汚染、宇宙への移住――と、フィクション作品ではあるのですが、世相を強く反映しているのが感じられます。

 ※ 以下、物語終盤のネタバレを含むので注意

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「国盗り物語(一)」司馬遼太郎(1965-1966年、日本)

(しかしおれには、天禀の武略がある)
 そう信じている。
 その才能を試したかった。というより、自分の一生の運を占うつもりであった。

 戦国の世、牢人から国主へと成り上がっていく松波庄九郎(斎藤道三)と、その娘婿である織田信長の生き様を描いた歴史小説

 言わずとしれた歴史小説の大家司馬遼太郎ですが、読むのはこれが始めて。

 第一巻は松波庄九郎(斎藤道三)編の前半ということで、金も権力もない牢人時代から始まって京の油商人となって一財産を築き上げ、美濃攻略への足がかりを獲得し……、と庄九郎が徐々に成り上がっていく過程が描かれています。 庄九郎の傲慢ともいえる自信と野心、そして一国の国主になる機会を虎視眈々と伺う様はまさに「蝮の道三」。 それでいて、人心掌握術に優れ、他者を屈服させる気迫を兼ね備えた庄九郎は、周囲の人を惹きつける不思議な魅力があり、梟雄斎藤道三とはまた違った面を見せてくれます。

 ……ただ、悲しいことに、この作品自体がどうしても自分に合わなかった。
 一番に文体で、地の文でしばしば作者自身が登場して歴史に関する論考を述べていくスタイルが苦手で……。 単純に作者登場の度に現実に引き戻されて小説の世界に浸れないというのもあるのですが、それ以上に小説の登場人物として、あるいは歴史上の人物としての松波庄九郎ではなく、作者が想像する松永庄九郎像を延々と語り聞かせられているように感じてしまって、あまり小説を読んでいる感じがしませんでした。 見方を変えると、フィクションの中に史実や史料に基づいた論考を混ぜ込むことで、主観を客観に転化してリアリティを増大させ、作品をより魅力的なものとしているのだろうと思います、良くも悪くも。 実話系怪談をはじめとしたフェイクドキュメンタリーによく見られる手法のように思いますが、歴史小説だと語り手=体験者とならないのでそこが違和感の元なのかな、と思いつつ(フェイクドキュメンタリーという言葉自体は司馬遼太郎よりもあとに出てきたもののように思いますが)。
 物語としても、(少なくとも第一巻の時点では)庄九郎の思惑通りにトントン拍子に進んでいくため、庄九郎の凄さというのがいまいち感じられず。
 全四巻の作品ですが、続きを読むかはかなり微妙なところ……。 作品というより、完全に私の感性の問題ではあるのですが、司馬遼太郎の作品は気になるものが多かっただけに残念。

「クリムゾンの迷宮」貴志祐介(1999年、日本)

火星の迷宮へようこそ。

 藤木芳彦が目覚めると、そこは見知らぬ紅の世界だった。 傍らに置かれていたゲーム機を起動すると、そこには「火星の迷宮へようこそ」というメッセージが。 そして、集められた 9 人の男女による過酷なデスゲームが始まる……。

 貴志祐介の作品の中でも人気作ということで、タイトルは知っていたのですが、今回やっと読了。 面識のない 9 人が疑心暗鬼になりながら腹のさぐりあいをする序盤から、メンバー間の対立が表面化し殺し殺される過酷な状況に追い込まれる終盤にいたるまで、息つく暇もないほど物語が進行していき、一気に読み終えてしまいました。 本作は主人公である藤木芳彦の視点で語られていくのですが、ゲームが進むにつれ凶悪さを見せるようになる他の参加者の描写が鬼気迫っていて、冷や汗が背をつたうような恐怖感、緊迫感が嫌というほどに伝わってきます。
 デスゲームものというと、小説、漫画、映画など様々な媒体で数多くの作品が存在しますが、本作は緊張感のある展開や生々しい描写が際立っていて、非常に読み応えがありました。 本作で印象的だったのが、サバイバル描写。 限られた物資の中で生きていくために、自生している果物だけでなく、爬虫類や虫、有袋類など、日常生活の中では想像するだけでも嫌悪感が湧いてきそうなものであっても、食べられるものであれば何でも口にしなくてはならない。 そのために、原始的な罠をつくり、捕え、殺して食べる。 そういった描写が妙に生々しくて……。 そして、終盤、一部のメンバーが餓鬼の如く人を食らうようになってから(ネタバレ反転)の展開は、貴志祐介の本領発揮とも言うべきグロテスクさで、読んでいて気持ち悪くなるほど。

 読んでいる間、よくあるデスゲームものか……という感想は正直拭えなかったのですが、それでもぐいぐいと引き込まれる筆力はさすがの一言。 そもそも日本におけるデスゲームものブームの火付け役となった「バトルロワイヤル」とほぼ同時期に発表された作品であることを考えると、当時読んでいればもっとインパクトが大きかっただろうな……とやや勿体ない気持ちになりました。

「水使いの森」庵野ゆき(2020年、日本)

ミミはこの時はっきりと悟った。自分はきっと水の神に呼ばれたのだと。
この西の最果ての地で、タータという師に出会うために。

 雷、風、土、火、光、この世に存在するありとあらゆる力を使いこなした先にある水丹術。 後継者である妹に先んじて水丹術の才を示した幼い王女ミリアが、政治的な諍いを避け、城を抜け出した先で出会ったのは、伝説として語られる水蜘蛛族の彫り手だった……。

 以下、若干のネタバレ注意。

 イシヌ王家により統治されている砂ノ領を舞台としたファンタジー。 本作の魅力は、作り込まれた世界観と、生き生きとしたキャラクターです。

 まずなんと言っても世界観の作り込みがすごい! 雷、風、土、火、光、そして水という世界に存在する様々な力を操る丹導術。 未知の超常的な術の力や設定は、読んでいるだけでも想像力が掻き立てられ、ワクワクしました。 それだけでなく、丹導術は人々の生活や考え方、物語そのものとも密接につながっており、本作をより奥深いものにしています。 この世界に住む人々の風俗(衣食住など)も細やかに表現され、まるで別世界に迷い込んだような気分にも。
 また、印象的だったのが、鮮やかな色の表現です。 ミミ(ミリア)の薄紅色、タータの紺碧、ラセルタの柿色、ハマーヌの鉄色、ウルーシャの硫黄色、水蜘蛛族の朱、藍、白の入れ墨、イシヌの水、西ノ森の青々とした植物……。 砂漠に覆われた砂ノ領が舞台となっているだけに、キャラクターたちの纏う色や自然が鮮やかさに感じられました。

 そして、それぞれが違った信念や考え方を持ち、行動しているキャラクターたちは、とても生き生きと魅力ある者ばかり。 ミミとタータ、ハマーヌとウルーシャの出会いと変化が中心に描かれているように、本作ではキャラクター同士の出会い、別れを経た成長が大きなテーマとなっており、非常に胸が熱くなる展開となっています。
 読んでいてはっとしたのが、カラ・マリヤの以下の台詞。 カラ・マリヤは何かとタータにつっかかり良い印象がなかったのですが(そして弱い立場にあるアナンを力をねじ伏せるという所業には未だに納得できていないのですが)、タータの強さが自由さが必ずしも周囲にとって、水蜘蛛の一族にとって良いものではないんだなと(そもそも水蜘蛛族の因習に問題があるとも言えますが)。 実際にカラ・マリヤとミミがいなければ、タータはアナンの人生について責任を負うことはなかったでしょうし。

「私が何をやったか分からんのなら、あの少年が何を守っているのかも、お前には分かるまい。 そんな半端な女に総彫りはできん……それだけだ」

 強いて気になる点があるとすれば、一部のキャラクターが物語の都合によって動かされているように感じてしまったところでしょうか。 ウルーシャとか、カラ・マリヤ(ネタバレ反転)とか……。 特に、ウルーシャに関してはハマーヌの成長の踏み台にされてしまった感じが強くて……(これまで他者と積極的に関わってこなかったハマーヌが、人と関わることと光の面と闇の面を知る上でウルーシャとの別れが必要だったことは分かるのですが)(ネタバレ反転)。 あと、イシヌ女王がミミに対する嫉妬を乗り越え、未来に希望を見出すシーンも、なぜ乗り越えられたのかのきっかけがいまいち掴めなくて無理やりまとめたように感じたかなと。
 また、ミミが跡目争いを避けて城を抜け出したというあらすじだったので権力闘争劇にやや期待していましたし、実際にイシヌ王家内の軋轢、イシヌ王家とカラハーマ帝家の対立、イシヌ王家と失われし民の因縁といった要素がありはするのですが、少なくとも本作ではキャラクターの成長がメインで、政治的な絡みは薄かったかなと思います。 本作は三部作の一作目なので、この辺りは次作移行へ期待かな。

 いずれにせよ、久しぶりに時間を忘れて一気読みするほどはまりこんだ作品だったので、次作も読むのが楽しみです!

「そして誰もいなくなった」アガサ・クリスティ(1939年、イギリス)

小さな兵隊さんが一人、あとに残されたら
自分で首をくくって、そして、誰もいなくなった

 言わずとしれたミステリの古典的名作。

 孤島に招待された十人の男女。 招待主であるオーエン夫妻が姿を見せず、嵐によって孤島に閉じ込められる中、次々と殺人が起こり……。

 久々の再読。 青木久惠の新訳版。 原題は「And Then There Were None」。

 淡々とした描写ながら、一人一人と殺されていって、次に殺されるのは誰だろうか、一体犯人は誰なのかと疑心暗鬼になっていく緊迫感が感じられて、気がついたら夢中で読み進めていました。 孤島に招待されたのは互いに関わり合いのない十人の男女ですが、過去に法で裁くことのできない犯罪を犯しているという一点で共通しています。 そのためか、一見どこにでもいそうなのに、どこか癖のある人物ばかりで、それぞれ個性的に描かれてます。 マザーグースの童謡「十人の小さな兵隊さん」を題材にした見立て殺人も、孤島に閉じ込められた十人の不気味な状況を引き立てていました。
 犯人については、過去に一度読んだはずなのに終盤まで別の人物だと勘違い……。 しかし、序盤~中盤を読み返すとしっかりロジックが組まれていて、どの情報が確からしく、どの情報がそうでないのか整理していくと真相に気づけるようになっていて、推理ものとしても、一つの物語としても楽しめる作品になっています。 昨今の長編小説と比べると文章量自体は少なめなものの、テンポの良さと内容が濃さから読後の満足感は非常に大きい。

 ミステリは好きなのに、アガサ・クリスティとか、エラリー・クイーンとか、ジョン・ディクスン・カーとか……、古典作品をあまり読んでこなかった(アガサ・クリスティもこの作品くらい)ので、これを機に色々手を出してみたいです。

「厭魅の如き憑くもの」三津田信三(2006年、日本)

谺呀治家は憑き物筋の家柄で黒、神櫛家は非憑き物筋の家柄で白――なんていうように、白黒をはっきり決められることなど、実は世の中には少ないと思うんだ

 憑き物筋の谺呀治家、非憑き物筋の神櫛家という対立する二つの旧家と古い因習の残る神々櫛村を舞台とした怪異ミステリー。 村で信仰される山神様と山神様を形どるカカシ像、村人が姿を消す神隠し、憑き物を祓う谺呀治家の双子巫女。 様々な因習や怪異が渦巻く神々櫛村で、次々起こる見立て殺人……。

 横溝正史の作品を思わせるような、家同士の結びつきの強い閉鎖的な村で起こる事件がなんとも不気味で、まとわりつくようなじめっとした雰囲気がとても良かったです。 本作の大きな特徴としては、民俗学的な知見に基づく膨大な描写や解説。 これが非常に読み応えがあって面白いだけでなく、現代と価値観の異なる村という特異な世界観に一種の現実味を与えています。
 ミステリーとしてはオーソドックスな内容でしたが、世界観や民俗学的な味付けがうまく合わさっており、楽しめました。 日記などの手記の形式で物語が進んでいる中で、一部だけ神の視点っぽい文書が混ざっていて不思議に思っていたら、実は真犯人であり、山神様として生きている小霧の手記だったという、ある意味でまさに神の視点だったことがラストで明かされて(ネタバレ反転)なるほどと唸りました。

 一方、本作の前半部分はほとんど舞台となる村の説明で、物語が動く(事件が起きる)のは半分ほど読み進めた辺り。 民俗学的な読み物としては面白いものの、物語としては正直退屈で、小説として手放しに勧められるかというと……。 かなり人を選ぶ気がしています。
 あと、怪異ものとしてもちょっと物足りない。 初めてこの作者様の作品を読んだけれど、全体的に説明的な描写が多く、恐怖を感じる「間」や「余白」があまり無いように感じられました。 村の因習や怪異に対しても類型を挙げながら民俗学的な解釈を加えていくので、怖さの根源となる「分からなさ」も薄れてしまって。 そもそもの話として、目の前の事象に対して合理的な説明を与えることで「理解すること」が面白さにつながっているミステリーと、「理解できないこと」を根源とする恐怖を題材としたホラーの相性の悪さもありますが……。

 とはいえ、個人的にはかなり好みな雰囲気だったので、シリーズ続編も引き続き読んでいく予定です。