「密室殺人ゲーム 王手飛車取り」歌野晶午(2007年、日本)

 だが、彼らが行っているゲームは、いま挙げた既存のミステリー・エンターテインメントとは、一つの、しかし決定的な違いがあった。
 彼らは仮想の殺人事件を推理しているのではなかった。
 ここで語られる殺人はすべて、現実に発生していた。彼らの手によって実行ずみなのである。

 ネットで知り合った 5 人の推理マニア。 1 人が出題者、残りの 4 人が解答者となり殺人事件の謎を解く推理ゲームを行うために集まった同好の士。 しかし、彼らの行うゲームは仮想の事件ではなく、彼ら自身によって引き起こされた実際の殺人事件で……。

 あらすじからして不謹慎で悪趣味ですが、だからこそ面白いといえる作品。 久々の再読ですが、純粋にエンタメ小説として楽しめました。 頭狂人、044APD、aXe、ザンギャ君、伴道全教授という個性的なメンバーと、ネットという匿名な場で、お互いの素性を知らないからこそのゆるい関係性から生まれる軽快な会話が良い。 出題者によって、謎を解く手掛かりが提示されるので、本格ミステリーのような側面もあり(厳密には新本格ミステリーに分類されるのかな?ミステリーについて語ることができるほど詳しくないので曖昧ですが)。 推理のための殺人だからこそ犯人の仕掛けるトリックにも必然性が生じているというのも、他の推理小説と違った切り口で面白かったです。 有名な推理小説のネタが散りばめられているので、詳しい人ほどニヤリとさせられる部分も多いのでは。 他作品を引き合いに出しつつも、ネタバレしないような配慮がされているのも地味に良かったです。

 ゲームのために罪悪感もなく、平然と殺人を犯す本作の登場人物たちの異常さを感じさせる反面、推理小説など殺人を題材にした作品を娯楽として消費する読者自身はどうなのかと突きつけるようなメタフィクション的な要素も本作の特徴かなと思います。 特に本作のラスト、他人事のように人を殺め、ゲームを楽しんでいたメンバーたちが当事者としてゲームに強制参加させられるという展開(ネタバレのため反転)は、登場人物たちだけでなく読み手に対する痛烈な皮肉にも感じられます。 この辺りは読んでいて映画「キャビン(CABIN)」を思い出しました。 あちらはホラー映画を題材としたメタフィクション作品ですが。

 単作のようで、実のところシリーズものなので、その点は注意。 本作一冊でも楽しめます(むしろこの一作目が一番面白かった覚えがある)が、ラストがやや尻切れトンボなので。 一通りシリーズを読んだはずですが、内容が思い出せないので、そのうち再読予定。

「蠱猫」化野燐(2005年、日本)

その”場”から生まれたモノは、認識されるだけでなく、人にさまざまな影響まで与えるようになる。
それを人為的にコントロールしたのが、人工憑霊。
人の心の奥底の無明の闇から生まれたモノよ。

 鬼神を具現化する書物を巡り、有鬼派と争う怪異バトルアクション。

 以下、若干のネタバレ注意。

 作中での鬼神論や怪異に関する解説、議論がとにかく濃くて面白い。 著者が怪異の研究家で、その圧倒的な知識量に基づく記述は非常に読み応えがあります。 本書における鬼神論の根底にある「鬼神が人の意識が生み出したもの」という考え方が好きです。 文庫化にあたって追加された巻末の関連図書案内も良かったです。

 人工憑霊蠱猫シリーズの第一巻ということで、物語としてはまだ序章。 主人公である美袋小夜子、白石優の能力が発現するとともに、有鬼派との対立が明らかになり、本格的に争いが始まるというところで一巻が終了。 物語が動き出し、面白くなってきたところなので、続きが気になります。
 映像を強く想像させるような描写が印象的で、冒頭の古書に囲まれた図書館別館の描写は本当に図書館の中に引き込まれたようでワクワクしました。 特に印象的だったのが、手術のシーン。 自分が自分でないものに作り変えられていく恐怖感、元に戻れないのではないかという絶望感。 読んでいる間の背筋がぞわつく感覚がすごかったです……。

 一方で、小説としてみると文章がややこなれていない印象を受けました。 ところどころで文章の時制が狂っていたり、一文ごとに改行が挟まっていたり、全体的に緩急に乏しく、テンポが悪かったりで、妙な読みづらさがあったのが残念。 登場人物の内面に関する描写が淡々として愛着が湧きにくいのも個人的に残念なのですが、映像的な描写に力が入っているので漫画やアニメなどの媒体だと映えそう。 調べてみたら、シリーズの序盤のみではありますが漫画化されているみたいですね。 あとは、シリーズの一巻目ということを差し引いても一冊で物語自体がほとんど進まないのでやきもきしました。 その分、個々の場面の描写が濃厚なので読み応えがあるのですが、人によって好みが分かれる一冊だなぁと思います。

 とはいえ、作中の鬼神論談義や、有鬼派という謎めいた組織の登場など、個人的には楽しめた一冊(8 巻目刊行以降、シリーズの続編が出ていないのが残念)。 妖怪などのジャンルが好きな人には割と刺さるんじゃないかなと思います。 妖怪ものの小説だと京極夏彦百鬼夜行シリーズなどが思い浮かびますが、あちらはミステリーなのでだいぶ毛色が違いますね。 同じような雰囲気を期待して読むと当てが外れるかもしれません。 また、ややグロテスクな表現が見られるので、そこも注意。

「宇喜多の捨て嫁」 木下昌輝(2014年、日本)

八郎よ、もしこの時、お前が真実を母に話していたならば、お前は梟雄とはならずに済んだかもしれない。 (「無想の抜刀術」)

 戦国時代の梟雄、宇喜多直家を描いた歴史小説

 ときに己の娘をも利用し、謀略によってのし上がったことから、一般に梟雄と評価される宇喜多直家。 本作では、梟雄としてしか生きていけなかった直家の苛烈な生き様、悲哀が描かれます。

 本書は、六つの小篇で構成されており、それぞれ異なる人物の視点から直家が描かれます。 そのため、読み進めるほど直家の新たな面が見えてきて、単に非情というだけではない、深みのある人物であることが分かってきます。 視点人物を含む直家に関わる人物たちの存在感も大きく、歴史小説としてはもちろん、一つの群像劇としても楽しめました。
 文章は勢いがあって明快。 それでいて、おどろおどろしい、独特の空気感があって個人的には好みです。 読んでいて情景が映像として浮かんでくるというのもありますが、場面場面で感じられる「臭い」が印象的です。 直家を取り巻く不穏な腐臭や血生臭さ、戦場の泥臭さ、人々の汗の臭い、それから梅の花の香り。 各小篇で紡がれた物語が最終篇で集約され、きれいに終着するのは秀逸です。

 巻末の高校生直木賞全国大会のルポも読み応えがあります。

 以下、ネタバレ注意。

「宇喜多の捨て嫁」
 直家の四女於葉から見た父を描いた小篇。 姉たちの婚家を滅ぼすことを厭わぬ父は、於葉からはひどく冷酷にうつります。 捨て駒ならぬ「捨て嫁」。 於葉自身もまた後藤勝基のもとへ嫁ぐことになりますが、めでたいばかりではありません。 やがて宇喜多家と後藤家が刃を交えることとなり、於葉は父に打ち勝つ決意を固めますが……。
 おそらく、世間一般の宇喜多直家像に近しい視点で描かれた小篇。 恥ずかしながら本書を読むまで宇喜多直家という武将を知らなかったのですが、最初のこの話で権謀術数を駆使して戦国時代を生き抜いた冷酷な武将としての宇喜多直家が描かれるため、その後の話にすっと入り込むことができました。

「無想の抜刀術」
 直家の生い立ち。 主家である浦上家に祖父を殺され、母とともに落ち延び、戦国の荒波に翻弄される幼少期から青年期にかけてが描かれます。 視点が異なるだけで、直家の印象がここまで変わるとはと驚かされました。 たとえ相手が大切な母であっても、自分に刃を向けるものに無意識に刃を向けてしまう「無想の抜刀術」はほとんど呪いのよう。

「貝あわせ」
 直家の人生にもこんなに穏やかなときがあったのだなと思わせる前半。 直家もまた、家族を愛し、正道を重んじる一人の若者として描かれます。 舅である中山信正の料理へのこだわりに閉口しながらも、舅から料理の仕方を教わるシーンは微笑ましくすらあります。 それだけに、主君の浦上宗景の思惑により、中山信正を殺すよう命じられる後半は読んでいて心が痛くなる。 直家に対し、「戦う」ことではなく、「謀」によって勝つことを教えたのが、最初に謀殺される中山信正その人であるのがなんとも皮肉です。 直家や中山信正が情に厚い人物として描かれるだけに、浦上宗景の酷薄さが際立ちます。 直家に富の自害を伝える際の浦上宗景の描写にはぞっとします。

いつのまにか浦上宗景の顔が、陽から陰に変わっている。 寡黙と厭世を愛する表情に。 (「貝あわせ」)

「ぐひんの鼻」
 浦上宗景は良くも悪くも目的に対してストイックというか、手段を選ばないというか、ひたすらに合理的。 非情が生む幻想によって人を支配するというのは、なるほど酷薄な浦上宗景らしい生き方だなぁと。 しかし、結局は直家よりも自身が優れているという慢心。 ぐひん(天狗)の鼻と呼ばれる岩が崩れ落ちて自滅するのはなんとも皮肉。 直家は舅に教わったように、「戦い」ではなく、まさしく「謀」(浦上宗景の支配力を削ぐことによって自滅に追い込む)によって富の仇を討ったのが印象的。

「松之丞の一太刀」
 「無想の抜刀術」を持つ直家と、自分の意思で大切な人のために刀を振るう松之丞の対比。 松之丞の覚悟と、最期に直家にあわせ貝を渡すシーンがひたすらに切ない。

「五逆の鼓」
 直家の最期。 死してやっと尻はすの腐臭が止まり、五逆の罪(母殺し)から解放されます。 鼓への執着ゆえに同じく五逆の罪を背負った江見河原源五郎が、直家の母との巡り会いによって鼓の境地に達するのが印象的。 母から受けた刃に始まり、巡り廻って死の間際の梅の花の香り(母による許し、救い)に終着する流れがとても好きです。

「梅の香りがする。 そうか、誰かが梅の花を持ってきてくれたのか」 (「五逆の鼓」)

「烏に単は似合わない」阿部智里(2012年、日本)

だから、私はここにいるのね。 双葉に、この琴は弾けない。だから、ここにいるのは、自分なのだ。これは偶然ではないと、あせびは悟った。 ここが、私を呼んだのだ……。 それまで、心のどこかで感じていたしこりが、ことりと落ちた気がした。 ここにいていいのだと、桜の花が笑った。

 平安時代風のファンタジー世界を舞台にした物語。
 世俗から切り離されて育った東家のニの姫が、腹違いの姉の代わりに宗家の次期当主である若君の后候補として突如登殿することになる。 しかし、他の后候補は美しくも癖のある姫君ばかりで、世俗に疎い二の姫は後宮で侮られ、肝心の若君も姿を見せぬまま。 やがて次々と起こる事件に巻き込まれていくことになるが……。

 以下、ネタバレ注意。

 若宮の后の座を巡る桜花宮の女達の権力争いを乗り越え、二の姫と若君が結ばれる少女漫画的な物語かと思いきや、叙述的なトリックを利用したミステリーという斬新な作品でした。 序盤は東家の二の姫あせびの視点で物語が進み、過剰な少女漫画的表現(あせびのあざといまでの純朴さや、あせびや后候補たちにの美しさの表現)が度々鼻につくのですが、むしろそれが本作の持つミステリー要素から目を逸らさせるミスリードとして働いているのがすごい。 あせび視点では、あせび自身が純粋でおっとりとした、清廉潔白な少女として描かれる一方、真赭の薄が「気取った」、自身に好意的でない女房が「ぶくぶく太った」と描写されるなど、ところどころあせびの人物像に対する違和感がちりばめられていて、それが伏線になっていていたんですね。 読み進めるにつれ、登場人物たちの印象が少しずつ変化していって、そういった読み手の心情の誘導、読み手の心情を利用した物語の展開の仕方がうまいなぁと思います。 また、「烏」という架空の生き物を主軸とした独特な世界観も魅力的で、四季の移ろう桜花宮が華やかに描写されています。

 一方、ひとつの物語として見た場合、いまいち世界観や設定が生かしきれていないなぁと感じる点が多々見受けられました。
 真っ先に気になったのは文体。 平安時代をモチーフとしたような雅な世界観と宮廷での権力争いというストーリーに対して文章が軽いというか、若々しいというか、現代っぽいというか、いまいち噛み合っておらず、良く言えば読みやすい、悪く言えば世界観にマッチしていない。
 また、全体的に登場人物の描写も浅め。 それぞれキャラは立っているものの、内面や人物同士の関係性についての掘り下げが少ないので物語の深みがなく、登場人物たちの言動に説得力が感じられません。 ラストの解決編も、ミステリーのギミックとしては面白いのですが、もう少しやりようがあったんじゃないかなとは。 後出しの情報が多く全体的に説明不足なのもそうですが、若宮が唐突に登場して証拠もないふわっとした理由で四家の姫を含む当事者たちを一方的に断罪していくのは、宗家と四家の微妙な関係を考えるとちょっと雑に思いました。 物語上の問題の根源は宗家と四家の権力争いであり、四家の手駒でしか無い(それどころか宗家と四家の権力争いの被害者ですらある)あせびや他の姫君たちを断罪し、追い出したところで根本的な解決になっていないですし。 后は適正によって選ぶと豪語しながら、確たる証拠に依らず、好き嫌いであせびを糾弾する若宮というキャラクターが、どうにも好きになれず。
 個人的には、あせびの本性を存分に発揮した宮廷ものが読みたかったなぁと。 あせびに罪がないとはいいませんが、権力闘争劇ではあせびくらい狡猾で強かな人物が居た方が断然面白いです。 総じて、良くも悪くも、ラストの展開のためのギミック特化な物語という印象です。

 一応シリーズものなのですが、続編を読むかはかなり微妙なラインです。 というのも、本作はギミック特化ゆえにどうしても一発ネタ感が強くてですね……(ファンタジーからミステリーへの転換というジャンルそのものへの先入観を利用したメタ的なギミックなので尚更)。 あまり興味のない若宮側に物語がシフトしていくらしいことも含め、別に読まなくても良いかな。 華やかな世界観や、登場人物の造形が漫画やアニメなどの媒体に向いている気がするので、漫画化された方は少し気になります。

「ぼっけえ、きょうてえ」岩井志麻子(1999年、日本)

死の予感より真っ黒な何かが背後から迫っていた。 闇にも濃度がある。明るい順に空、人家、山脈、道。最も濃いのが人だ。 松明を掲げて提灯を下げていても不吉な影法師だ。 ……それは、我が家にもいる。 (「密告函」)

 第 6 回日本ホラー小説大賞を受賞した表題作の「ぼっけえ、きょうてえ」を含む、短編 4 篇が納められた本。 「ぼっけえ、きょうてえ」は岡山弁で”とても、怖い”の意。 随分前に一度読んだのですが、今回再読。 いずれの作品も、怪談というよりも人の怖さを描くものとなっています。 岡山弁で語られる、閉鎖的な村落のまとわりつくような湿った空気感が、なんとも言えない不気味さを生み出していてよかったです。

 以下、ネタバレ注意。

ぼっけえ、きょうてえ
 寝物語に語られる、女郎の身の上話。 語り手である女郎の独白で物語が進み、聞き手の台詞や地の文は出てきません。 それゆえに、聞き手=読み手であることが強く意識させられます。 じとっと汗のにじむような不快な暑さや、耳障りな蚊の羽音さえ感じられるような、真っ暗な夏の闇の中。 好奇心にかきたてられ女郎の話を促す物語の中の聞き手は、ページを繰る読み手そのものなのでしょう。 そして、最後のオチは、対岸の火事と他人事でいた読み手を捉え、物語に引きずり込んできます。 ”姉ちゃん”の存在は、悪意や欲望そのもの。 他者の悪意や欲望に苦しめられてきた女郎自身もまた、悪意や欲望にとらわれていることをようで、人の業の連鎖がまた恐ろしく思えます。
 本作品に出てきた”ナメラスジ”という言葉は、実際に岡山の伝承で魔物の通り道として伝えられている場所のようですね。香川や兵庫でも似たような伝承として”縄筋”という場所があるのだとか。

「密告函」
 コレラの蔓延する村。 ある日、村の役場に、コレラ患者を密告するための”密告函”が据えられます。 役場に務める弘三は、密告函の管理を任されることに。 密告函の中身を確認し、密告された者に見回りを行う。 そんな皆の厭う仕事を断りきれぬまま続けるうちに、少しずつ平穏な日常が変化していきます。
 初読時に因果応報の物語だと感じましたが、今回も感想は変わらないですね。 小心者の弘三は、働き者で機転も利く妻トミに頼り切りな一方で他の女に懸想したり、隣家でコレラが蔓延し多くの死者が出てもなお己の保身にばかり腐心します。 己の保身と欲望のために人の悪意と業がつまった”密告函”を自ら開き己の居場所を壊しながら、それを他者の所為にし続けるのは、己の所業に気が付かぬ愚かさか、それとも己の所業を認めたくない浅はかさか。 いずれにせよ、他者に負けず劣らず、弘三が醜悪に感じられました。

「あまぞわい」
 ユミが嫁にやってきた漁村には”あまぞわい”についての言い伝えがありました。 ”そわい”は潮の引いた時に海面から除く岩山のこと。 あまぞわいでは、海女が男を慕って、あるいは尼が男を恨んで泣くのだとか。収録されている 4 篇の中で一番ピンとこなかったのですが、結局”あま”はなぜ泣くのでしょうね。 少なくともユミが泣くのは、男のためではないように思います。 物語の最後、かつての愛人だった恵二郎への恐怖で泣いてはいますが、本質的には自分の境遇を嘆いているように思えました。 酌取りになれば己を見下す客に嫌気を感じ、漁師の嫁になれば閉鎖的な漁村を疎み、恵二郎と良い仲になれば添い遂げられぬ身の上を嘆き、恵二郎の成れの果てを見てはあんなものと抱き合っていたのかと吐き捨てる。 己の境遇を己の力で変えることが出来ず、己を哀れんで泣くのがユミの”あまぞわい”であるように感じました。

「依って件の如し」
 村八分の兄妹の妹シズの物語。 前半は、周りに辛く当たられながらも、誰も恨むことなく健気に生きるシズの話となっていて、彼女を応援せずにはいられませんでした。 それだけに、後半明らかになる事実にはひどく打ちのめされます。 ”件”は凶事を予言する妖怪ですが、本作ではシズのおぞましい出生の秘密と、死後行くことになる地獄を象徴するものでしょうか。 他の 3 篇よりも精神的に打ちのめされるのは、シズが無垢な少女だからでしょうか。 化け物が赤の他人なら憎むなり無視するなりすればよいのに、身内に化け物がいたときにはどうすればよいのでしょう。 それが大切な人なら、自分に優しくしてくれる人なら、余計に苦しい。 おそらくシズは幼い頃から薄々気がついていたんでしょうね。
 兄の利吉が何を考えているのかは、作中ではほとんど語られないので想像で補うしかありません。 周囲への怒りか恨みか絶望か、あるいは既に狂気に侵されているのか。 由次一家を殺したように、自らと通じていた母を殺したのも利吉でしょうが、なぜそこに至ったのか語られないため、シズと同じように彼に恐怖を感じずにいられません。
 「よって件の如し」という言い回しがありますが、表題とかけているものの作品の内容と直接的な関係はないのかな。 作中に出てきた”ツキノワ”というのは、”ナメラスジ”と同様、忌み嫌われる地を指す言葉として実際に伝承に出てくるようです。

「読書力」齋藤孝(2002年、日本)

読書を核とした向学心や好奇心が実に重要なものだと思えてくるのである。

 自己形成のための読書について論じた本。一つの考え方に固執せず、柔軟な思考を磨くために、読書が重要であると著者は論じています。

 娯楽として読書をしてきた人、読書に興味がある人に対して、読書の意義を(抽象的にではなく)具体的に提示するとともに、どこまで理解できればその本を読んだと言えるのか、どんな本を何冊くらい読めばよいのか、読書に寄って自らを鍛える方法論といった具体的な指針を示しているので、読書への意欲の向上や具体的な目標設定に繋がるのではないかと思います。

 本の読み方は人それぞれ自由で良いんじゃないかと思うので、本書を鵜呑みにする必要はないと思いますが、著者自身の体験や実践してきた方法も交えて語られているのが良いです。 他者の読書体験を見聞きするのは純粋に面白い。 本書では著者の考えのベースにおそらく教養主義があるのですが、言葉は知っていてもいまいちピンとこないので、本書で挙げられている関連文献にも目を通してみたいです。

 巻末の著者が推薦する「文庫百選」では、古典から比較的最近のものまで、有名な作品が並べられているので、そこから気になった本に手を出すのも良さそうです。

「入門!論理学」野矢茂樹(2006年、日本)

すこし唐突な言い方ですが、「哲学」です。 つまり、その学問の根本的なところ、その本質を、つかみとり、提示する。論理学ってけっきょく何なんだ。 何をやっているんだ。 <中略> 入門だからこそ、その根っこをつかまなければいけない。

 論理学の入門書。 「入門」と銘打ってはいますが、本書で特筆すべきは、「言葉」を扱う論理学の本質、具体的には論理学の目的や数学における立ち位置になどに着目している点です。 それらを噛み砕き、平易な言葉で説明がされているため、論理学を学ぶ意義、また論理学の面白さを知る入り口がうまく提示されているように感じました。

 論理学の基礎的な部分、「または」や「かつ」、「すべて」や「存在する」といった個々の要素をの意味を分解して説明を行うとともに、そこから導き出される命題論理から体系的に論理学を組み立てていく過程も説明されており、いままで漠然と記憶していた一つ一つの要素の、論理学という「学問」としての繋がりが朧気ながら見えてきました。

 論理学を学ぶ初学者だけでなく、論理学の基礎を学んだ初心者や中級者が、改めて論理学の意義や全体像を知るのに良い本だと思います。