「ぼっけえ、きょうてえ」岩井志麻子(1999年、日本)

死の予感より真っ黒な何かが背後から迫っていた。 闇にも濃度がある。明るい順に空、人家、山脈、道。最も濃いのが人だ。 松明を掲げて提灯を下げていても不吉な影法師だ。 ……それは、我が家にもいる。 (「密告函」)

 第 6 回日本ホラー小説大賞を受賞した表題作の「ぼっけえ、きょうてえ」を含む、短編 4 篇が納められた本。 「ぼっけえ、きょうてえ」は岡山弁で”とても、怖い”の意。 随分前に一度読んだのですが、今回再読。 いずれの作品も、怪談というよりも人の怖さを描くものとなっています。 岡山弁で語られる、閉鎖的な村落のまとわりつくような湿った空気感が、なんとも言えない不気味さを生み出していてよかったです。

 以下、ネタバレ注意。

ぼっけえ、きょうてえ
 寝物語に語られる、女郎の身の上話。 語り手である女郎の独白で物語が進み、聞き手の台詞や地の文は出てきません。 それゆえに、聞き手=読み手であることが強く意識させられます。 じとっと汗のにじむような不快な暑さや、耳障りな蚊の羽音さえ感じられるような、真っ暗な夏の闇の中。 好奇心にかきたてられ女郎の話を促す物語の中の聞き手は、ページを繰る読み手そのものなのでしょう。 そして、最後のオチは、対岸の火事と他人事でいた読み手を捉え、物語に引きずり込んできます。 ”姉ちゃん”の存在は、悪意や欲望そのもの。 他者の悪意や欲望に苦しめられてきた女郎自身もまた、悪意や欲望にとらわれていることをようで、人の業の連鎖がまた恐ろしく思えます。
 本作品に出てきた”ナメラスジ”という言葉は、実際に岡山の伝承で魔物の通り道として伝えられている場所のようですね。香川や兵庫でも似たような伝承として”縄筋”という場所があるのだとか。

「密告函」
 コレラの蔓延する村。 ある日、村の役場に、コレラ患者を密告するための”密告函”が据えられます。 役場に務める弘三は、密告函の管理を任されることに。 密告函の中身を確認し、密告された者に見回りを行う。 そんな皆の厭う仕事を断りきれぬまま続けるうちに、少しずつ平穏な日常が変化していきます。
 初読時に因果応報の物語だと感じましたが、今回も感想は変わらないですね。 小心者の弘三は、働き者で機転も利く妻トミに頼り切りな一方で他の女に懸想したり、隣家でコレラが蔓延し多くの死者が出てもなお己の保身にばかり腐心します。 己の保身と欲望のために人の悪意と業がつまった”密告函”を自ら開き己の居場所を壊しながら、それを他者の所為にし続けるのは、己の所業に気が付かぬ愚かさか、それとも己の所業を認めたくない浅はかさか。 いずれにせよ、他者に負けず劣らず、弘三が醜悪に感じられました。

「あまぞわい」
 ユミが嫁にやってきた漁村には”あまぞわい”についての言い伝えがありました。 ”そわい”は潮の引いた時に海面から除く岩山のこと。 あまぞわいでは、海女が男を慕って、あるいは尼が男を恨んで泣くのだとか。収録されている 4 篇の中で一番ピンとこなかったのですが、結局”あま”はなぜ泣くのでしょうね。 少なくともユミが泣くのは、男のためではないように思います。 物語の最後、かつての愛人だった恵二郎への恐怖で泣いてはいますが、本質的には自分の境遇を嘆いているように思えました。 酌取りになれば己を見下す客に嫌気を感じ、漁師の嫁になれば閉鎖的な漁村を疎み、恵二郎と良い仲になれば添い遂げられぬ身の上を嘆き、恵二郎の成れの果てを見てはあんなものと抱き合っていたのかと吐き捨てる。 己の境遇を己の力で変えることが出来ず、己を哀れんで泣くのがユミの”あまぞわい”であるように感じました。

「依って件の如し」
 村八分の兄妹の妹シズの物語。 前半は、周りに辛く当たられながらも、誰も恨むことなく健気に生きるシズの話となっていて、彼女を応援せずにはいられませんでした。 それだけに、後半明らかになる事実にはひどく打ちのめされます。 ”件”は凶事を予言する妖怪ですが、本作ではシズのおぞましい出生の秘密と、死後行くことになる地獄を象徴するものでしょうか。 他の 3 篇よりも精神的に打ちのめされるのは、シズが無垢な少女だからでしょうか。 化け物が赤の他人なら憎むなり無視するなりすればよいのに、身内に化け物がいたときにはどうすればよいのでしょう。 それが大切な人なら、自分に優しくしてくれる人なら、余計に苦しい。 おそらくシズは幼い頃から薄々気がついていたんでしょうね。
 兄の利吉が何を考えているのかは、作中ではほとんど語られないので想像で補うしかありません。 周囲への怒りか恨みか絶望か、あるいは既に狂気に侵されているのか。 由次一家を殺したように、自らと通じていた母を殺したのも利吉でしょうが、なぜそこに至ったのか語られないため、シズと同じように彼に恐怖を感じずにいられません。
 「よって件の如し」という言い回しがありますが、表題とかけているものの作品の内容と直接的な関係はないのかな。 作中に出てきた”ツキノワ”というのは、”ナメラスジ”と同様、忌み嫌われる地を指す言葉として実際に伝承に出てくるようです。